2010年2月 1日
クリストファー・コロンブスの栄光
1484年、ポルトガルのジョアン2世に航海のための援助を求めるが断られる。その頃ポルトガルはアフリカの喜望峰に達しており、わざわざ新しい航路を開拓しなくてもインドに着くと考えられていたからである。1488年にはバルトロメウ・ディアスがこの東周りの航路を開拓した。ポルトガルは自身を必要としていないと考えたコロンブスは、1486年にカスティーリャのイサベル1世とその夫フェルナンド5世(アラゴン王としてはフェルナンド2世)にも援助を願い出るが、良い返事は得られなかった。
当時のスペインではイスラム勢力が占拠するグラナダを攻めるために準備を整えており、コロンブスに対する援助ができないのも当然であった。しかし1492年1月2日に、スペインはグラナダを攻め落としレコンキスタを完遂すると、「地理上の発見」のための財政上の余裕ができ、またポルトガルに対する対抗心も手伝い、フェルナンド国王の財務長官であったルイス・デ・サンタンヘルを初めとしたスペイン王室は、コロンブスに援助を与えることに決めた。4月17日、フェルナンドとイザベルは正式にコロンブスと契約した。イザベルは宝石まで与えたが、それは自身の指輪一つだけだったとも言われている。
1492年8月3日、大西洋をインドを目指してパロス港を出航した。この時の編成はキャラベル船のニーニャ号とピンタ号、ナオ船のサンタ・マリア号の3隻で総乗組員数は約90人(120人という説も)。
一旦、カナリア諸島へ寄り、大航海の準備を整えた後、一気に西進した。大西洋は極端に島の少ない大洋であり、船員の間には次第に不安が募っていった。当時の最新科学では地球が球体であるということはほぼ常識となっていたが、船員の間では地球を平面とする旧来の考えも根強く残っていた。
コロンブス自身は平気な振りをしていたが、計算を越えて長い航海となったことに不安を感じるようになる。10月6日には小規模な暴動が起こり、3日後には船員の不安は頂点に達し、コロンブスに迫って「あと3日で陸地が見つからなかったら引き返す」と約束させた。その後、流木などを発見し陸が近くにあると船員を説得する。
そして10月11日の日付が変わろうとする時、ピンタ号の水夫が陸地を発見した。翌朝、コロンブスはその島に上陸し、ここを占領してサン・サルバドル島と名づける(サン・サルバドルという名前には、「聖なる救世主」という意味がある。この名前は、上にあるように船内が荒れていた時に発見し、ほっとして思わず付けてしまったという説もある。又以前スペインに滞在した際、近くの教会の名をつけた)。その後、いくつかの小さな島を見つけた後、現在のキューバ島を発見し、ここをフアナ島と名づけた。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
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